「少年」 大岡昇平(講談社文芸文庫)



 
大岡昇平(明治42年〜昭和63年)の自伝です。

なかでもお母さんのエピソードが印象的。
時代は大正、日本女性がほぼ全員着物を着ていた頃の話です。

大岡昇平のお母さんは、かつて和歌山で芸妓をしていましたたが、夫の実家(地主)の目をおそれ
芸妓(芸者)だった過去を徹底的に隠していました。
結婚後、「動作から芸妓的なものを完全に消して」暮らしていたのです。

お母さんは自分の子ども時代の話は絶対しない。
昔の
写真を見せない。
家に三味線があっても決して弾かない、
踊りもしない、唄も歌わない。

つまり「家には母が芸妓であったことを示す痕跡は一切なかった」。

やがて大岡少年(以下、少年とします)は、 和歌山から上京してくる 母方の親類の歩き方に、ある特徴を見つけます。 祖母は「だるそうな内股で歩く癖」があり、多額のお小遣いをくれる大叔母は「祖母よりもひどい内股で歩いた」。

 

※(この小説で出てくる「歩き方」は、先天的なものを指しているのではないと思われます。※【関連話題】 大正14・今和次郎の歩き方調査

 

お母さんは、大叔母達の職業を教えてくれません。
少年が聞くときつい調子で怒るのです。

しかし少年は大叔母達と同様の内股歩きをする女性を地元の渋谷で見たことがあった。
「世の中に芸妓という職業があることは、道玄坂上の花街あたりを内股に歩く女たちで知っていたし、
学校には大人のまねをして芸妓について卑猥な冗談をいう子供がいた。」

少年の頭に母の過去への疑問が浮かびます。

が、母は「内股歩きをしなかったそれにも拘わらず、私が疑いを持ったのは、あまり皆が隠すからあであった

■そして、少年は大好きな祖母や、敬愛する姉(遠くに里子に出されている)が、
男性に接する際の独特な光景を目撃して、真相を知ることになります。

場所は母が「姉さんのようにしていた」“初枝さん”という女性の御殿。 京橋区月島(現・中央区)にあり、大正時代なのに湯船は大理石、お湯は獅子の口からという超豪邸でした。

「初枝さんも極度の内股歩いた」人。
彼女は「精をつけるために」牛の血を飲む人でもありました。

祖母と姉と一緒に“初枝さん”の御殿に遊びに行った少年は、
見知らぬ先客(代議士Sさん)と鉢合わせしてしまい、夕食を供にするはめに…。

「酒が出た。三味線も出てきた。

そのうち祖母と姉がSさんを『大将、大将』と呼び出した。」

『大将、大将』といって男を取り巻く慣習を、初枝さんだけでなく、祖母までが持っていたのである。私の敬愛する姉もそう言い、私といっしょに帰るとは言わなかったのである」「私は、『明月』が、ただの料理屋ではなく、講談や時代小説にあるような芸妓屋であることを疑うことが出来なくなったのである。」

号泣しながら、ひとり家路につく大岡少年。
「涙をぽたぽたたれ流しながら歩いている、小学校の帽子をかぶった自分の姿は、今思い出しても悲しくなる。」

祖母の歩き方、大叔母と初枝おばさんの歩き方から、大叔母の家の職業と、母の前歴について私の持っていた疑いが疑いでなくなったのが悲しかった。この時、私は『明月』における祖母と姉の生活の実態をこの目で見てしまったのだった。それは同時にかつての母の姿でなくてはならなかった」

『明月』とは少年の大叔母が経営していた店の屋号。

■この体験はのちの小説にも影響しました。

芸者だって、相場師だって、恥じる必要はない、そういう教育を両親はするべきだった、と思ったこともある。そうすれば私は人間と社会についてすべてを根本条件から考える習慣がついたかもしれない」

母はその動作から芸妓的なものを完全に消していたから、人に言わない以上、それは存在しないも同然だった。しかしこのことは、少年の心に深いこだわりとなっただけでなく、大人になってからも私の女性に対する態度に影響したと思う。

私の小説に出てくる女性は、必ず複数の男と性的交渉を結ばねばならず、しかも決して男を愛してはならない。性的経験から無傷で出てこなければならないのである。」

「永井荷風、吉井勇、泉鏡花の花柳小説は、私にはあんまり面白くなかった。それらに登場するロマンチックな芸者に、なんとなく手放しで感心させないものが、私の中にあるのである。」




■参考画像。クリックすると、その他の絵が出てきます。


■御覧になった方も多いと思いますが、山田五十鈴さんは「流れる」(1956)で芸者さんを演じた際、日常のシーンをかなりの内股で歩いています。一方、芸者さんじゃない(シロウトさん役)映画を見ると、着物でも内股ではありません〜〜。会社勤めの役「浪華悲歌」、美しい母親役の「女ひとり大地を行く」「下町」など。


■戦前の人気漫画家 が描く芸者さんの内股の絵はこちらにも。

日本人 内股本人 内股

表紙